先週熊本へ出張に出る前に、写真セミナーの受講生さんから
「今私は岩手県釜石市でボランティアをしています!!!!」
という連絡が入りました。
彼女は若い看護師さんですが、これまで自分の使命として人間の一生を沢山看とって来られました。そんな彼女が
「一瞬にして沢山の命が奪われた被災地」で改めて「死生観に向き合っている」と、
そして私は九州へ。
話は変わりますが日本に於ける「写真」。その発端の「ダゲレオタイプ」は幕末に九州の島津藩へ伝来しました。それまでに外国人は既にその「写真術」と機材を携えて長崎や神戸、横浜から入国し日本で「フォトグラフ」を撮っていました。
遅れて日本人も「写真」が撮れるようになります。ここからは私見です。
おそらくまだ「名前」が付いていなかったので「適当に(って簡単に片付けられないと思いますが)」写真と名付けてしまった。このことが日本の「写真」の始まりと「今日の写真」に何らかの影響を与えたことは否めないと思います。
「フォトグラフ」これがどこでどうなって「写真」と名付けられたのか。
日本に「ダゲレオタイプ」「カロタイプ」「鶏卵紙」「湿板」が伝来する半世紀前ぐらいには、司馬江漢が「写真鏡」なるものを用いて作画しています。つまり「写真と言う言葉」が既に日本に有り、光学系と鏡を使った持ち運びができる「写真鏡=カメラオブスキュラ(暗い部屋・カメラの語源)」で、正確に外の風景の3Dを平面化していたのですね。
「絵筆で正確に写し取る。」それまでの日本人の絵はパースに対してはいい加減だったと思われるので、きっと「おっ!真実に近い!」ってな感じで驚かれ、重宝されたことと思います。後に「ダゲレオタイプ」が伝来しガラスの板や、紙に「絵筆を使わずに」写し取る=定着できることから安易に「鏡」だけ外して「幕末に伝来した新しい術」を「写真」としたのではないか、、、、想像の域でしかありませんが。
「フォトグラフ」を訳すと「光画」となります。「写真」と名付けたことを「意訳」であるというのが定説です。私は「誤訳」では無かったのかと考えています。
フォトグラフと言っている(国)人は潜在的に「光の絵」と言っているのと同じです。対して「写真」と言う文字からは「真実を写す」とか、フォトグラフ以前に「写真鏡」も伝来して「正確に書き写す」こともされてたことを考えると、「余りにも自分の姿が正確に写し取られてしまうので、魂まで取られるのでは無いか!!」なんて心配から「手を隠して写真に映る」というのが流行ったり、また目で見ているように映らない「写さない」「写せない」ことがなんだか悪いことであるかのような、また評価されない、、、、つまり「技術」の問題だけが顕在化して「芸術」の側面が育たなかったような。。。。。
方や「フォトグラフ」と言う国(人)は「潜在的」に「光の絵」と言っているわけですから、当然「光に気を遣う」訳で、「絵画と同等」に伝える事に気を遣うわけで、この言葉の違いから来る感覚の差は大きいと思います。幕末に「光画」と名付けられていたら日本の写真は、私の写真は今どうなっていたかは知るよしもありませんが。
話が更に飛びます。熊本で撮影を終えホテルの部屋で片付けを終えていつの間にか寝てしまいました。朝の4時半頃目が覚めますと、テレビが付きっぱなしで視点・論点
「体育からスポーツへの変化を【出演】スポーツ評論家…玉木正之」が映しだされていました。
内容は、明治維新の最中「スポーツ」を適当な言葉が無かったので「体育」と名付けたばかりに「体罰」が伴うことになったということ(だけでは有りませんでしたが)を、私の「写真誤訳論」に近い感じて論じておられました。つまり
「スポーツ」と「体育」は全く違うのだ!という内容でした。
「適当」に体育なんて名付けたばっかりに、日本独特の発展をしてしまった。
早朝の熊本のホテルの一室でつけっぱなしのテレビを見ながら
「写真」「体育」共に「負の遺産」を感じていました。
ここからが本題です。ご免なさい!九州へ出る前に頂いた連絡の中に
「私の友達も私も周りも、自分の家を「カセツ」としか呼んでなくて、「家」と呼んでくれない。それをどうにか集約・復興住宅へ行く前に「家」って呼んで欲しいな。って。」
そう思って活動している釜石の女子学生のお手伝いをしているので私にも手伝ってくれないかという、若き看護師さんからの連絡でした。
なんと、完璧なタイミング!!
釜石で被災された彼女は「自分たち」が「カセツ」と呼んでいることが
「なにかまずいことになる」事を感じているんだなあ。。。。と彼女に感心しました。
今年宮古市から仙台まで車で走ってきましたが、確かに「カセツ」という言葉を皆さん使われていたし、私もなんの抵抗もなく使っていました。
そう、「写真」や「体育」のように、
言葉を適当に使い続けるとなにかおかしな事になっていく。
こんな言葉もありますよね。
□ 思考に気をつけなさい それはいつか言葉になるから
□ 言葉に気をつけなさい それはいつか行動になるから
□ 行動に気をつけなさい それはいつか習慣になるから
□ 習慣に気をつけなさい それはいつか性格になるから
□ 性格に気をつけなさい それはいつか運命になるから
何気なく使う言葉、その言葉を発する思考。それらを適当にしてしまう怖さが理解できます。
さて、「カセツ」という言葉が何かまずいことになる?と気づいた、釜石の女子学生さんの活動は
ハートマークアートプロジェクトというそうです。
クリック→ https://youtu.be/9px32f7VA2w?t=2m
彼女のメッセージは2分頃から出てきます。是非耳を傾けてみてください。
言葉の大切さ、恐さに気づいた彼女を応援したいと思いました。
皆さんもいかがですか? 9月20日にイベントがあるそうです。現地への参加は出来なくても大丈夫です。
参加される方には9月の18日までに「カセツ」を彩る「マグネット」にハートを書いて送って頂きます。
材料を郵送させていただきます。私自身も当日現地へは伺えませんが参加・協力します。
「カセツ」を私達の「ハート=愛」で包み込むには
相当な数が必要だと思います。皆さんも是非参加してみませんか?
ご興味の有る方はまずは私まで連絡ください。
今後このプロジェクトの様子もお伝えしていこうと思っています。
日々の生活の中で何気なく使ってしまっている「言葉」
私たちも、今日、読んで頂いたこの瞬間からプラスの方向へ、明るい方向へ「言葉」を見直してみませんか。
きっと素晴らしい将来になっていくと信じています。