恩師の元洛南高校吹奏楽部の宮本輝紀先生が、ちょうど一月前の9月1日に急死されたと言うこと。残念な事だか、誰しもいずれはこの世から旅立つので、受け入れることしかできない。
宮本先生は、洛南高校への自転車通勤から始まり、バイク免許取得でカブでの通勤、そして四輪免許取得で自動車での通勤と、その変遷を見せて頂いた。腰が痛いと、車は変わっても「レカロ」のシートが運転席だけには受け継がれていたのが懐かしい。その影響もあってか自分も車が変わってもレカロシートは変わらない。
宮本先生とは在学中の時よりも、卒業してからの方が何かとお世話になったように思う。
楽器屋さんで働かせて頂いていた時は、わざわざクラブが終わる頃を見計らって納品に行って、ボックスの鍵が返される夜遅くまで色々と話をして頂いた。先生のその話の深さと長さは、小学校高学年〜中学校の時にいじめの対象となり、逃げるように高校へ行った自分にとって、人生への転機となった。その後人前に立ち、話し、「仕事を通じて人を幸せに」なんて思うようになれたのも宮本先生の影響が大きい。そして、社内でもまたデジカメセミナーでも、一日中「人としてどうあるべきか」を喋り続けられるのも、宮本先生の姿をみて育った事が大きい。
また音楽の道から今の職業に変わるきっかけも被写体としての「指揮者・宮本輝紀」として大きな存在だったかな。
恩師の故・山下先生に写真の道を奨められたのも、洛南高校と宮本先生とのご縁から。
まだ子供が産まれる前に、嫁と車で走っていて信号で止まったら、たまたま横に先生の車が・・・・声を掛けたら「次ぎ曲がってへ止まらんか〜」と、そのまま道ばたで2時間ほど「どうしてんにゃ?」「ご機嫌やな〜」そんな先生だった。
先生の目はいつも青年のようだった。しかし鋏かな?昔に眼に刺さったことがあるらしく、その瞳には白い傷があった。そんなことで片目が見えない私をいつも気遣って頂いた。
上の子供が小学生に上がる前の事、夜植物園の北側を先生が頭に手ぬぐいを巻いてランニングされていたので、声を掛けたら、早速子供に「なにか歌えへんか」と言って、何度も拍子をとって歌の練習をしだしたり・・・・
後に小学校へ上がった娘と東寺へお参りに行った時に偶然先生と遭遇。お悪くされていて手術かな?退院されて始めて学校へ出られた日だったそうで、そのままクラブの練習を娘と共に見せて頂くことになった。
娘曰く「話が多くて練習少なかったね」バチで叩いて削れていた譜面台が印象的だった。
退官の年には、
テレビでとりあげられたり、新聞に載ったりと更にご活躍で元気な姿を見せて頂いた。
子供達と共に新しくされた先生のご自宅へ三度ほどお邪魔している。現在上の娘は上京中学校で打楽器をしていて今年の関西大会で銅賞だった。下の子は小学校で音楽部、やはり打楽器。
最近では、お宅へお邪魔した時に映像の勉強にとVHSのテープを貸してくださり、その返却に私の書いた原稿の載った本と手紙でお返ししたのが、今年の5月4日今思えば持って伺えばよかった。それが最後になった。本読んでいただけたかな。
昨年
洛南の時の二年先輩の同窓会へ呼んで頂いた時の映像があります。
拙い映像ですが、あの「宮本先生」のお声が聴けます。もう聴くことが出来ないと思うと寂しいですが、私達の心の中にはしっかりと刻まれていると信じています。
「今生きている値打ちを創らなイカン」
「お互いに感謝の心を忘れんように」
こうやって宮本先生はいつも私達に語りかけてくれました。
次は私達が宮本先生の「役」をやる番が来たのだと思います。先生に教わったことを将来世代に語り継いでいく。これが私達が宮本先生への恩返しとして、残りの人生を使ってやらなければならないことかと、思っております。
「宮本輝紀」という人は、どこまでも本物の教育者でした。
南無大師遍照金剛・南無大師遍照金剛・南無大師遍照金剛
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